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このところ食育と云う言葉がちまたで脚光を浴びています、文字通り「食における教育」を指1した明治以来とされている伝統ある造語です。
少なからずイタリアのスローフード運動と共通したものがあることに関心を寄せています。両者ともに様々な活動、取り組みがなされています。全国的な大きな取り組みに加え地域においての伝統食材、調理技術に注目、まさに食することそのものの教育、味わうことで豊かな旬、技術を体験するといった食に携わる人間に大変意義ある内容が盛り込まれています。
スローフード運動のそもそものきっかけはイタリア国内でのファーストフードの展開に対する危惧、直接的にはマクドナルドのローマ進出と言われていますが、日本にもそれに近い事情があります。外食に携わる私にとってはイタリアよりもさらに危機的な状況にあると感じる機会が多々あります。

もともとイタリア人は食を大切にする文化伝統が基本にあり、料理に携わる業界、地域個々の店舗の社会的な位置付けも日本と比較して高いと言えます。
元々食べることの好きなお国柄と言うとその通りですが、豊かな伝統文化の土壌があってこその恩恵であることも疑いのないところです。
日本に於いて自分が専門とする外食ということで質、コストパフォーマンスを基準に考えると明らかに消費者の選択肢は少ない、何らかの技術、旬、名産でも伝統の恩恵を受けたものを適正な価格でもって享受する機会にはなかなか出会えない。

大量にあるのは個性のないチェーン店で個人店も覇気がなく自信を失っているような印象です。そこには利益優先の企業の運営あり、また一方では地域、個々人の店舗での起業、運営のし辛さがあると思います。
2地域個人に根ざしたものでなく、利益を追求することに重点がおかれたシステムや企業の理念で運営されていて、職人のこだわりや食べる方の健康を思いやるといった本来必要、有益な努力の入る余地が少なく、質を高めようという意識は薄く、大切な部分が形骸化して食で人を楽しませようということではレベルが低いと言わざるを得ません。そのような店舗が多くあると質は高くても資本の弱い個人の店舗は出店が難しくなり、もし出店出来ても厳しい競争にさらされる、悩ましい問題です。
社会が成熟していって、消費者の要求が高くなりもっと分散して結果的には個性が求められ大切にされるそんな状況が来て欲しいと思います。
環境が整って、その仕事が好きな、価値を理解できる、実質的に才能に恵まれてそれを磨こうとする、前向きな努力ができる文化の担い手たちがいて運営されていけばそれはつまらないものになりようがないでしょう。おそらく豊かな、大きな視点では心地の良い社会が創造されていく駒の一つとなっていきます。3
そのような人たちを育てるためにも食育のような試みは良い機会になるでしょう。
学校給食の話ですが、近頃子供たちの偏食が進んでしまい、給食を残す率が高くなってしまっているそうです。そのような中である地方の学校が食育に取り組み、ある試みで残す率をほとんど0にすることができたそうです。その試みとは野菜の生育に子供たちを参加させ、できた野菜を給食に使用するというものです。実際に使用するのは僅かな量ですが、実際に生きた野菜に触れ、それを食べるために摘み取るわけです、野菜がどのようなものかを理解して大切さを実感するのでしょう。
よくスローフードの関係者の方の談話を拝見すると、運動は穏やかなものでファーストフード打倒を謳うようなものではなく、地方ごとに当たり前に存在する色々な貴重な産物をスローフードとして取り上げ紹介し廃れないように生産者を力付けていくのが主旨ということです。本当に伝統を大切にし、その中で生きるお国柄、その方策も適度で的を得ています。
私が心配に思うのは日本では、様々な事情から伝統がうまく機能していないことで、こういったことが浸透するのも早く、スローフード、ファーストフードということへの価値感ももうすでに逆転して、戻すのが難しい状況にあるのではないかと感じてしまいます。
システムはコンピューターウィルスように一人歩きして店舗を作り、質以外のことで人を誘い、詰め込み、しかし何も感動を残さない、成熟していない社会では逆にそのような上辺だけの作り物が意外にも支持されることがあります。
スローフード、食育これは大切な提案ではないでしょうか?重要な要素、「食」という角度から社会を育てていこうという試みに他ならないと私は受け止めています。

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